永十一年(一二七四)、佐渡に流罪となっていた日蓮聖人が赦免されました。鎌倉に戻られ幕府に対して三度目の諫言をしますが、とうとう聞き入れられず「三度諫めて用いずんば山林に交われ」との諺にならい、檀越である波木井實長公の招きにより身延への入山を決心されます。同年五月十二日に鎌倉を出立された日蓮聖人は、六日間かけて身延に到着され波木井公と対面すると「實長が今生の間は見つぎたてまつるべし、後生をば聖人たすけ給え」と歓迎を受けられたと伝えられています。この場所を「逢島」と呼んでおり、日蓮聖人が休息されたと伝わる「腰掛石」が、その名残を留めています。甲 文慶安三年(一六五〇)八月には、「腰掛石」のすぐ近くに、これを記念するお堂として「発軫閣祖師堂」が建立されました。さらに、寛文五年(一六六五)九月、三河国(愛知県)刈谷城主の三浦志摩守明敬の母・寿応院殿の寄進によりその地に総門(惣門)が建立されました。門柱には、三浦家の家紋である「丸に三つ引き」が彫刻されています。元文三年(一七三八)に改修され、そ州身延名所絵巻本文読み上げ
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