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育恩の峰より
奥之院思親閣別当 望月 海俊
是我善知識 為欲発起 宿世善根 饒益我故 来生我家 ―妙荘厳王本事品―(みのぶ誌2016年4月号より)

 歳を重ねると時間の経過を早く感じると言われますが、別当の任期が残り1年となったことを実感しております。
 とくにこの最後の年度は、妙蓮尊尼750遠忌の報恩浄行円成に向け、皆様のご厚誼を賜り、鋭意邁進する所存です。
 さて新年度という節目は、社会的な一区切りであると同時に、新たな出会いの時でもあります。皆様におかれましては、どのような出会いがあるのでしょうか。嬉しい出会いが多いことを念じるところであります。
 ところで、私たちがこの世に命を授かり、最初の出会いとして分かり易いのは、なんといっても親子の出会いです。
 30年余前の読売新聞に「ママ」と題された4歳児の詩があります。
「あのねママ、ボクどうして生まれてきたのか知ってる。ボクね、ママに会いたくて生まれてきたんだよ」と。(後NHK「おかあさんといっしょ」の歌に)
 会いたくて生まれたという表現は、実に随自意かつ肯定的であり、言われた方も嬉しくなります。しかしながら、家族の数だけ問題があると言われるように、親子愛・家族愛は幻想かと思わせるような、強いて言えば悪鬼入其身(心)のなせる所行かと思うような事件を耳にするたびに心が痛みます。さらに、大聖人の「悲しいかな我ら、三界を車輪の如く回り、父子の中にも親の親たる・子の子たることを悟らず。夫婦の巡り会えたるも、巡り会えたるを覚えず。我を生みたる母の由来も知らず」のお言葉が思い出され、親子の在り方を問い直さねばならないと痛感しております。
 冒頭に、我が子は私を導くために生まれたという妙荘厳王の感激をあげましたが、仏陀釈尊はもとより、大聖人や宮沢賢治にみられるように、子が導きの師ともなりえます。
 皆様の思親閣ご登詣が、親子という奇跡的な出会いの意味を見直す、機縁になりますことを念じております。

合掌