身延山は甲斐の国、波木井郷の内にあり、南部六郎波木井実長公の領地でした。幕府を三度諌めて受け入れられなかった日蓮聖人は、山林に身を隠せとの古事にしたがい、文永11年(1274)5月17日に身延山に入山し、心安く法華経の読誦と門弟達への教育にあたられました。この身延山の山頂(標高1153メートル)には、奥之院思親閣があります。日蓮聖人の在山は9か年になりますが、その間、故郷の事を思い出されては、西谷の草庵より五十丁の道なき道を登られ
吹く風立つ雲までも
東の方と申せば庵を出でて
身にふれ庭に立ちて見るなり
(光日房御書)
遥かに房州小湊のご両親、師の道善房を追慕された思親大孝の霊場であります。
境内には、故郷を遥拝される日蓮聖人像があり、東の方には伊豆半島ならびに霊峰富士が展望できます。石段の中程の両側には、日蓮聖人お手植えの杉が700年を経た今も、雄壮な姿を見せています。仁王門は伝運慶作の「密迹金剛」「那羅延金剛」が寺域を守っています。
正面の祖師堂は、六老僧の一人、日朗上人によって開創され、加賀百万石前田利常公の母堂・寿福院殿華岳日栄大姉の丹精にて、寛永元年(1624)六間四方の大堂が完成し、今日に至っている由緒のある建物です。
鐘楼と洪鐘は、寛文8年(1668)の作で、いずれも身延町の文化財に指定されています。その他「露坐仏像」「元政塚」「常護堂」「開基堂」「休憩所」「札所」「大孝殿」「庫裡」等があります。
日蓮聖人は9か年、身延山から一歩も外に出ることもありませんでしたが、弘安5年(1282)の秋、病身を養生すべく、また両親の墓参のために身延山を出発し、途中池上(東京都大田区池上)にて御入滅になられました。御年61歳でした。心安く法華経を読誦した山であるから、「いずくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」と、御遺言され、また「日蓮が弟子檀那等は、この山を本として参るべし、これ即ち霊山の契りなり」と、仰せられております。
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